【スタッフブログ】永太郎【生い立ち 幼少期】

今回から永太郎の生い立ちを徒然と書いていきます。

永太郎の概要はこちらからご覧ください。

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幼少期から、永太郎が発達障害であると両親と当時の精神科の先生たちは把握していたらしい。ただ、先生は両親に向けて「成人すれば治る」と診断していたらしく、両親も永太郎のことを「健常者」として接し、教育されてきました。

”たられば”の話になりますが、この時点から障害特性についてちゃんと理解してくれていたら、今よりもマトモに暮らせていたのではないかと後悔もありました。


普通の子として幼少期からずっと教育されたが、永太郎自身が周りと違っている不思議な感覚はずっとありました。幼稚園に行くときに履いていく靴下の履き心地がどうも我慢できなかった私は左足小指の”違和感”に耐えられずに泣き叫び、当時の母を困らせていました。今でも靴下の履き心地に神経質なところはまだ変わっていないと思います。また、幼稚園で大きな画用紙に迷路を描いた時は思いつきで迷路にトンネルを”被せたい”と思い、わざと迷路の上に茶色のクレヨンで塗りつぶし、周囲から理解されなかったこともありました。また、外遊びする「意味」がわからずひたすら室内で積み木をしていた記憶もありました。おそらくこの時点で今後のボッチ路線が確定していたと思います。

そして親含め、永太郎の何気ない行動の一つ一つが周囲になぜか怒られていたのも意味が分かりませんでした。よく「逆の立場だったら…」「相手の気持ちを考えて…」などと、中高生になるまで言われ続けました。そこで永太郎自身が”逆の立場?”で考えてみたとしても、※基本的になんでも許してしまうスタンスだったので、そこまで怒る理由がわからず「なんで?」の質問攻めを繰り返していました。(※お人好しとも違うイメージ。あくまで自己中心的で他人に対し無頓着なだけ)

その”なんでも許してしまう”スタンス。当時の永太郎の精神はトンデモなかったので、幼稚園の非常階段から両手で突き飛ばされて2階から1階に突き落とされた時もその意味が分かっていませんでした。後頭部を何針か縫った影響で今も10円ハゲが残っております…(我ながら本当に恐ろしい。子供時代だったな。)


それでも社宅に住んでいた事もありママ友つながりで幼稚園の頃は、永太郎となんとなく遊んでくれる子たち数名&近所の心優しき子もいたので、完全にボッチなわけではありませんでした。このまま小学校に入学出来ていたらまだ良かったはずですが運命とは悲惨なもんで、卒園とともに見ず知らずの千葉の”ど”田舎に引っ越してしまいました。

生い立ち 小学校編1】に続く…


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